「アンナ・カレーニナ」を1年半かけて読んだ
高校時代にトルストイの「戦争と平和」を読もうとして、図書館にあった新潮文庫を借りて、到底読めたものではなくて、挫折して返却したことがある。
さすがに俺ももう高校生ではないので、今ならがんばれば読めると思う。
いやでも新潮文庫はキツいかも。翻訳文が不自然すぎてつらかった気がする。
光文社が出してる↑このKindle版で読んだが、訳が読みやすくて良かった。読みやすい一方で原文尊重もちゃんとあって、「これなら読める」と思った。
幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある
読書体験というのは様々にある。
本の内容を中立で評価するというのは意識的に行わないと難しい。あるいは意識しても不可能かもしれない。読書体験というのは、純粋な内容だけではなくて、付随する様々な要素で変わってくる。たとえば一気読みしたのかor毎日数ページずつちょっとずつ読んだのか、紙の本で読んだのかor電子書籍で読んだのか。
「アンナ・カレーニナ」に関していうと、読了に1年半かかったという意味で、特別な小説だった。
Kindleの購入履歴を見ると、2023/5の購入なので、正確には1年と4ヶ月ほど。翻訳文がこなれていて、「これなら読める」と思ったのが去年だったが、実際に読むかどうかは別問題。
娯楽はたくさんある。動画、マンガ、スポーツ中継、音楽、ラジオ。不倫話が見たければ、週刊誌やネットを見れば良い。その中で「アンナ・カレーニナ」という19世紀の終わりに書かれた古典作品を好んで読もうと思わなかった俺もいた。
ゴールデンウィークのセールで買った後で、長い積読期間があって、旅行中に第一巻をなんとか読んだ。この時点でたぶん3〜4ヶ月。第一巻を読み終えたときに、「こういう小説なのか」というのがようやくわかってきた。同時に面白さもわかってきた。
「アンナ・カレーニナ」自体は、昔Amazonプライムで映像作品(映画なのか何なのかもよくわからない)を見たことがあったので、大筋は知っていた。というかアンナが不倫して、最終的に追い詰められて自殺する、という筋書き自体は、相当シンプルで、予想可能でもある。
ただ映像作品では原作が大幅に端折られていたことがわかった。
よく言えば総合小説としての重厚さ。悪く言えばロシア文学特有の冗長さ。現代向きではないだろう。
どういう小説なのか一言に集約させるとしたら、「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」という有名な書き出しがすべてだろう。
アンナが出てくるまでに17章
アマプラの作品で色々端折られていたが、まあそれも理解できる。
なにせ8部構成になっていて、全ての要素を入れたらちょっとした大河ドラマぐらいの時間が必要になる。そしてアンナ以外の話が多すぎる。たぶん見てる人間も今何の話なのかわからなくなるだろう。
読みはじめてまず、アンナが全然出てこないことに驚いた。
今確認したら、第1部第18章が初登場だった。まずアンナの兄のオブロンスキーの夫婦喧嘩が描かれる。そして友人リョーヴィンがモスクワを訪ねてきて、二人で生牡蠣を食べて、白ワインを飲む。ここのグルメ描写は美味しそうでいいけども、何を見せられてんねん感はあった。
Kindleで見たからページ数わからないけども、紙の本だったら100ページぐらい使ってるんじゃないだろうか。
ただこの小説、終始こんな調子で、本筋のアンナの不倫話は実はさほど書かれていなくて、半分以上別のキャラのエピソードが掘り下げられる。
最初は思いつきで作者が好き勝手書きたいこと書いてんのかなと思って読んでたけども、第一巻読み終わったあたりで、どうもW主人公的な作品だという構成に気づいた。
アンナの悲恋が作品のメインで、ただこれはいわば闇であり、むしろ本筋はリョーヴィン・キティのカップルのストーリーで、こちらが光要素。若さ、挫折、成長、真実の愛、幸福な家族。リョーヴィンとキティの話は、第一巻ではそれぞれ失恋して心に傷を負うものの、長い時間をかけてハッピーエンドに至る。
文末にあった解説を読む限り、これは意図した構成であるらしい。
あとアンナの不倫相手が「ヴロンスキー」なんだけど、最初オブロンスキーと名前かぶりすぎててつらかった。二人ともめちゃくちゃに主要人物だから、もうちょっと名前かぶり避けて欲しかった。
リョーヴィンについて
「アンナ・カレーニナ」というタイトルだから、アンナが一応は主人公なんだろうけど、読んで一番出てくるのがリョーヴィンなので、読んだ感じでは彼が実際の主人公だと感じた。
リョーヴィンは田舎の地主で、知識人なんだけども、やや偏屈で、いつも自問自答している、社交性に乏しいキャラクターとして描かれる。
ストーリー的には、農業経営で頭を悩ませたり、肉親の死に直面したり、妻の出産に立ち会って苦悩したり、とにかく多種多様な経験をすることになる。
無神論者で、キリスト教の習慣に疑問を持っている。
たぶんこの小説を読めば、好感を持つキャラだろう。不器用だけど、誠実に生きていて、応援したくなるタイプというか。
最終章の第8部で、唐突に哲学的な悩みが頂点に達して、
「もしも自分の人生の問題に対してキリスト教が与える答えを認めないならば、おれはどんな答えを認めるというのか?」
と考えるようになる。無神論者は宗教を否定するが、その代替となる思想は提供してくれない、とも。
最終的に彼は自分が幼少期から神の加護を受けていたことに気づき、キリスト教に帰依する。
悟り状態になったリョーヴィンだったが、実際に家族や使用人と話すと、自分の内面のすばらしい状態と裏腹に、とげとげしい物言いをしてしまう。しかしそれすらも彼は受け入れる。
「いや、言う必要はない」妻を先に行かせて、彼は考えた。「これはおれ一人に必要で、大事な、しかも言葉では表現できない秘密なんだから。 この新しい感覚も、夢見ていたようにおれを変えてくれはしなかったし、急に幸せや啓示を授けてくれることもなかった。息子に対する感情も、まったくこれと同じだ。びっくりするような贈り物はそこにもなかった。ただこれを信仰と言っていいかどうか知らないが、この感覚もまたいろんな苦しみのあげくこっそりと心の中に入ってきて、しっかりとそこに根付いたのだ。 これからもおれはこれまでと同じように御者のイワンに腹を立て、同じように議論をして場違いなところで自分の意見を述べるだろうし、自分の胸のうちの神聖なるものと他人との間には、たとえ相手が妻であれ、壁があり続けることだろうし、相変わらず自分の恐怖感を妻への非難にすり替えてはそれを後悔し、また同じくなんで自分が祈るのか理性で説明できぬまま、祈りつづけることだろう。だが今やおれの生が、おれの生活の全体が、わが身がどうなろうと関係なく、どの一分間をとっても、単にかつてのように無意味でないばかりでなく、疑いようのない善の意味を持っている。しかもその善の意味を自分の生活に付与する力が、おれにはあるのだ!」
この小説自体が、このリョーヴィンの独白で終わる。だいぶキリスト教的な説教ではあるが、これがトルストイなのかもしれない。
ジェンダー問題としてのアンナ
アンナというキャラクターについて。
彼女は第一部で出てきたときは、輝かしい人間だった。外見の描写はさほどない。黒髪で巻き毛というぐらい? ただどうやら美人というのは、他のキャラクターの反応からうかがえる。印象的なのは人間としての部分だろう。家庭崩壊状態だったオブロンスキーの不和を解決してしまう。性的な魅力で男をたぶらかす女ではなく、コミュニケーション能力が高く、聡明な女性で、誰からも好感を抱かれるタイプとして描写される。ただこの人間的魅力も、巻が進んで、不倫によって彼女が追い詰められていくと変質してしまって、「男をたぶらかす女」に近くなっていく。
「アンナ・カレーニナ」が書かれたのが1870年代で、この時代の女性としては、アンナはなんというか自我を持っている。単なる悲劇のヒロインではなく、明確な意思を持った存在として一貫して描写される。兄嫁のドリーと比較すると、対照的だろう。ドリーは多産多死時代の典型的な妻で、不満を抱えながらも、最後は家庭の中で小さな幸せに満足すると決心する。
アンナはヴロンスキーと不倫関係になって、子供までつくる。夫のカレーニンとの離婚は様々な事情で進まない。アンナの方もカレーニンとの間の一人息子セリョージャへの愛情が断ち切れない。そして複雑なことに、ヴロンスキーとの間の子供にはあまり愛情を抱けずにいる。これはどうやらヴロンスキーから母としてではなく、女として愛され続けたい、という思いから来ていると思われる。
またもう子供はつくらないと決心していて、そういう描写もある。
最終的にヴロンスキーに十分に愛されていないと感じるようになる。読んでみると、ヴロンスキーの愛が完全に冷めたという訳ではなく、日常生活の中で昔よりは薄まって、険しい態度を取ることが増えているだけだったっぽいが、アンナからすると許しがたかった。それが悲劇的な結末の原因になる訳だけども……
トルストイがどういう意図だったのかは知らんけども、このアンナのキャラ造形はジェンダー問題として読めるようになっていて、先進的だなと思った。繰り返すけども、この小説は1870年代の作品なので、トルストイにその意図はないだろう。たぶん時間を経て、違う意味が出るようになってしまったんだと思う。ただこれはいい方の意味の出方だろう。
俺は2024年の人間なので、アンナの心情はだいたい違和感がなかった。一個だけ、息子のセリョージャへの愛が強すぎないかとは思った。カレーニンの屋敷忍びこんだときはちょっと異常さを感じた。けど、赤ん坊のときから見てる一人息子だから、まあわからないでもない範疇。親権の問題。
1870年代のロシア的価値観だと、アンナの行動や考え方はもっと規範を逸脱していたのかもしれない。特に子供をつくらないとドリーに話しているシーンは、トルストイもかなり注意深く書いているように見えた。
総合小説
もしこの小説をアンナの不倫モノとして切り出したなら、一巻でおさまると思う。実際映像化された際は、メインストーリー以外を切って、2時間前後におさめている。
トルストイがどこまで構成していたのか読んでいるときは疑問だった。「この話こんなする?」と感じるときは何度かあった。農場経営のとことか、選挙のとことか。なので勢いで書いてるのかと思っていたが、解説を読むと、どうも構成がちゃんとあるらしい。
リョーヴィン&キティとアンナの話は、ストーリーの中で関係することもたまにあるけど、基本的には別々の展開で、それでも読んでると流れで読めてしまう。これは主題の部分でつながりがあるからっぽい。たとえば生と死とか。
総合小説というのは、いくつかのテーマを内包しているものだけど、「アンナ・カレーニナ」は掘ればいくらでも出てきそうだ。農場経営のところは数十年後にロシアで共産主義国家が誕生するのを予見しているような書き方にも見えた。そんな訳はないのに、そういう風に読めてしまう。
時間的な経過から来る、登場人物の内面世界の変化がすごく重要で、無神論者だったリョーヴィンが最終的に信仰に至ったのは前述の通りで、キティも初登場時は傷つきやすい若き女の子だったのが、色々な経験を積んで、強い女になった。最終的なキティの雰囲気は、第一部でモスクワに来たときのアンナを思い出すものがある。あるいはアンナもヴロンスキーとの出会いがなければ、幸せな家族でいられたのかもしれない。
この辺りの総合小説としての魅力は、映像作品では捨てられてしまったものだった。短い時間で観客に伝えるためには、複雑なものは切り捨てなければならない。冗長なものは要約すべきだ。それは理解しているけども、「アンナ・カレーニナ」という小説に関しては、冗長なままの方が良いと感じた。冗長さが重厚さでもある。純粋な不倫モノならば、もっとストーリーとして面白いものがたくさん書かれているので、現代的な視点から言うと、不倫モノとしてのストーリーは弱さすら感じる。
こういう長くても面白いものと、そうでもないものの差はなんなんだろうな、と思う。
(了)